仕事で人は成長する

仕事で人は成長する

今年に入って、自己啓発本系の読書をあまりしていなかった。意識してそうしてきつつ、たまにはそういった系統の読書もしないとな、なんて思い始めた頃に本書を読んだ。

一気に読んだが、ページが進むにつれ、どんどん背筋が伸びていく。正座とまではいかないが、とにかく姿勢を正して読みたくなる。個人的には、今年の自己啓発系読書は、本書のみで十分。色々な自己啓発本を読むより、本書を繰り返し読んだ方が、よほどタメになるのでは。

本書では特に真新しいことが書かれているわけではなく、内容的には他の自己啓発本と大差ないと思うが、だからこそ、心に響くのだろう。簡潔で分かりやすいメッセージがとても大切なことばかりを伝えている。各項目のタイトルからしてシンプルで分かりやすく目次を読んだだけでも、大げさではなく半分以上著者の込めたメッセージが伝わってくる。ただ、簡潔だからといって、読み飛ばしたりせず、一字一句じっくりと、そこに込められたメッセージを感じ、しっかりと向き合いながら読みたい本である。

単焦点レンズの魅力

Nikon デジタル一眼レフカメラ D80 AF-S DX 18-135G レンズキット

Nikon D80を購入して、3ヶ月程経つ。購入後、二ヶ月くらいはNikon AF-S DX VR Zoom Nikkor ED18-200mm F3.5-5.6G(IF)を装着して撮影していた。18~200mmという普段の撮影には必要十分なズーム範囲と、高性能なレンズ内手ぶれ補正の組み合わせは、とても実用的かつ身軽(若干重たいが)で、久しく一眼レフカメラで写真を撮っていなかった僕に、写真を撮る喜びと楽しさを思い出されてくれた。特に、D80の重厚で乾いたシャッター音は、その音と感触だけで、写真の出来上がり云々以前の満足感をもたらしてくれている。

20070530-DSC_1401
Nikon D80, Nikon AF-S DX VR Zoom Nikkor ED18-200mm F3.5-5.6G(IF)
F3.5, 1/15s, ISO:560, Focal Length:18mm
ロンドン市街にて手持ち撮影

一眼レフで写真を撮る楽しさを思い出して、それが日常的になってくると、ズームレンズだけで写真を撮るのが物足りなくなってくる。昔、銀塩一眼レフで写真を撮っていた頃、仕事で撮るとき以外はほとんど常に単焦点レンズを装着して写真を撮るようになっていた。50mmでF1.2の明るい標準単焦点レンズを装着して、スナップを中心に、被写体に近づいて絞りを開け思いっきり背景をぼかしたマクロ的写真を撮ったり、絞ってカリッとした風景写真を撮ったり。自由に動ける環境では、標準レンズ一本でほとんどあらゆるタイプの写真を撮ることができることを体感しつつ、それによって、より写真を撮る楽しさに目覚めたように思う。また、標準レンズで写真を撮り続けることで、写真そのものの腕もかなり上達した。写真上達の一番の近道が、「標準単焦点レンズのみで撮り続けること」だと思うようになったのは、そういう経験を通してのことだ。

Nikon Ai AF Nikkor 35mm F2D

そんなわけで、Nikon AF-S DX VR Zoom Nikkor ED18-200mm F3.5-5.6G(IF)という素晴らしく出来のいいニッコールレンズを差し置いて、Nikon Ai AF Nikkor 35mm F2Dが僕の写真生活のメインレンズとなったのは、三週間ほど前のことだ。

35mmを選んだのは、銀塩一眼レフ換算で50mmに一番近いから。銀塩一眼レフ換算の50mmというのは一番人間の目線に近いというのも、魅力のひとつだと思っているので、迷わず35mmを購入。F2という絞り開放値も十分なスペック。画質は好みもあるかもしれないが、絞り開放で撮影しても自然なぼけ味がいい感じ。個人的には、少し絞ったほうが好みに合っているような気がする。

20070805-DSC_4498.jpg
Nikon D80, Nikon Ai AF Nikkor 35mm F2D
F2, 1/20s, ISO:100

やはり、単焦点標準レンズでの撮影はすこぶる楽しい。F値も明るいし、D80の自動ISO感度調整をONにしておけば、室内での手持ち撮影もサクサクと撮れる。ISO感度が上がることによる画像の荒れは防げないが、個人的には画像が荒れてでも、ストロボなしで撮った写真のほうが好みだ。

また、「0.25m」という最短撮影距離も実はとても気に入っている。これは、レンズ先端から被写体までの距離ではなく光センサー面から被写体までの距離なので、相当寄れる。「写真は引き算」というのが僕の基本スタンスなので、思いっきり被写体に寄ることが出来るこのレンズは、僕の撮影スタイルにはうってつけのレンズだ。

というわけで、しばらくNikon AF-S DX VR Zoom Nikkor ED18-200mm F3.5-5.6G(IF)の出番がなくなりそうだ。本当に良いレンズなので勿体ないが。素晴らしい手ぶれ補正機構のついたこのレンズをサブカメラとして使うのは、中村俊輔をスーパーサブとして常時ベンチに置いておくくらい悩ましく、そして贅沢だ。といっても、例えば幼稚園の運動会の撮影等、被写体に近寄れずズームレンズがどうしても必要な場合には、むしろこっちがメインになる。そういうシーンでの撮影もままあるので良しとしよう。あと、夜景を手持ち撮影したいときには、こっちのほうが適しているかもしれない。シャッタースピードを1/15に設定しても手ぶれ補正によって、3段ほど上のシャッタースピードで撮影しているようなものなので、実際手ぶれはほとんど防ぐことができる。↑に貼ったロンドン市街で撮影した写真もシャッタースピード1/15で手持ち撮影だが、ほとんどぶれていない。本当にいいレンズだ。

それでも、普段のメインはNikon Ai AF Nikkor 35mm F2D。やはり写真を撮る喜びや楽しみという点において、ズームレンズは単焦点レンズにかなわないものなのだ。単焦点レンズの魅力は尽きない。

20070805-DSC_4460.jpg
Nikon D80, Nikon Ai AF Nikkor 35mm F2D
F2.4, 1/30s, ISO:100

地球を斬る

地球を斬る

国家の罠 外務省のラスプーチンと呼ばれて 」(参照)を著した佐藤優氏によるニュース(主に外交に関する)の斬り方。

「国家の罠」を読んだときにも思ったことだが、普段私達が見聞きするニュースというのは多分に政治的背景や意図というフィルターを通されているな、というのを痛感する。そういったフィルターを通ったニュースを、何も考えずにそのまま読むと本来知っておくべき、あるいは考えるべきことに気付くことが出来ないものだ。

本著は『フジサンケイビジネスアイ』に連載された「地球を斬る」(参照) という”ラスプーチン”佐藤優氏による時事解説の第1~60回(2006/1/9~2007/3/8)を単行本化したもの。時事解説として、今も継続して週一で更新されているこの連載は、その切り口の鋭さから学ぶことが非常に多い。時事解説なので、リアルタイムに読むことに特に意味がある連載ではあるが、本著がおいしいのは、当時の時事解説をそのまま掲載しながら、キーワード解説、検証文、さらにそれを読むだけでも本著を手にする価値があるといってもいいほど読み応えのあるあとがき(「第三次世界大戦」のシナリオ)が追加されているところだ。

連載掲載順にまとめられた本著は、各コラムの内容が多彩で、悪く言えば寄せ集め的ではあるが、全体を通して、佐藤氏の外交官(起訴休職中)・インテリジェンスオフィサーとしての思考法・着眼点は冴え渡っている。特に北朝鮮・イランの核開発等に関する佐藤氏の時事解説は、それらの問題が具体的な脅威として私達の生活に迫っているんだなということを思い知らされる。その辺りは、あとがき(「第三次世界大戦」のシナリオ)に簡潔にまとめられている。

テロリズムも私達にとって、今や「具体的な脅威」だ。空港でのセキュリティチェックがあれだけ強化されたことを考えても、テロリズムは「対岸の火事」とは言えない。そのテロリズムといかに戦っていくべきか、それを「思想戦としてのテロリズム」(P.234)の検証で以下のようにまとめている。

こうしてイタチごっこが続くのであるが、最終的には国民がテロリストの要求には一切屈しないという姿勢を貫き通せばテロはやむ。テロ対策の根幹は、思想戦である。テロに怯まないという思想を国民が共有しなくてはこの戦いに勝つことはできない。(P.237)

テロが身近に起きてから、その脅威に気付いても遅い。それはそこに迫っているという認識を私達個人がまず持つことだ。それさえ出来ずに「テロに怯まない」という強い思想を国民で共有することなどできない。

そういう認識を持つために、日々発信されるニュース(それがどんなフィルターを通っているにせよ)をきちんと収集し、行間にこめられているかもしれない情報まで読み解くという意識が大事だ。それには様々な予備知識を持つことが必要になるが、本著はそれらの予備知識に習得に加えて、ニュースの読み方を鍛錬する上で、非常に良質な教科書といえる。現在も連載中の「地球を斬る」(参照)も合わせて、世界を知る為に読んでおきたい一冊だ。

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パネッテリア アリエッタ – 素人パン屋奇跡の物語 彼らがパンから学んだこと

パネッテリア アリエッタ―素人パン屋奇跡の物語 彼らがパンから学んだこと

五反田駅東口を降りて、右手(東急)方面へ歩道橋を渡り、ソニー通りを品川方面(キャッツシアター方面)へ少し歩くと、右手に小さなパン屋さん「パネッテリアアリエッタ」がある。素材に徹底的にこだわった「本物」の天然酵母パンは、なかなかの値段設定で、ただ空腹を満たすだけためだけに買うには敷居が低くない。

僕はどちらかというと、「食」にこだわりを持っていない。普段はコンビニで買えるような菓子パンの類で満足しているが、本著を読んで、その「本物のこだわり」で作られたパンというのがどんなものなのか知りたい欲求に駆られたので、五反田まで足を運び、なけなしの小遣いをはたいて買って食べてみた。

食したのは、「パネッテリア アリエッタ」のホームページで紹介されている(参照) 人気の三品。パン・オ・ミエーレ、メスコラータ、フェニックス。本著を読んで、その「本物へのこだわり」かたに少なからず感銘を受けていたという、気持ちの高揚感を差し引いても、これらのパンは旨い。健康志向の天然酵母パン、というと味気ないイメージがわいていたが、ここのパンはそんなイメージとはかけ離れて、とにかく旨い。こんなパンを食べてしまうと、コンビニで買って食べていた菓子パンは、まさに「お菓子」でしかなかったんだなとしみじみ思う。

いや、これまでももちろん、菓子パン以外のパンを食べたことはあるが、ここのパンを食べたときほどの衝撃はなかった。多分、本著を読まずに、何も知らずにここのパンを食べたとしても、同様な感動を受けただろうなと思う。素人なので、うまく言い表せないが、とにかく旨いんだ。身体だけではなくて、心に訴えてくるというか何というか。

残念なのは、パネッテリアアリエッタのパンを食べる前に、本著を読んでしまったことだ。食べて感動してから、本著を読んで、その味の秘密を知りたかったなとつくづく思う。本著には、食へのこだわりだけではなく、商売をしていくうえで本物にこだわるということがどれほど大事なことかという、ある意味で商いの基本というか本質が書かれている。全ての商売人、企業人にお勧めな本ではあるが、読む前にまず、パネッテリアアリエッタのパンを食べることを強くお勧めする。食べて感動してもらって、その味の秘密を本著で紐解いていく、というのが、正しい本著の食し方。

もしどうしてもパンを食べる前に本著を読むことになったとしても、読んだら必ずパネッテリアアリエッタのパンを食べるべき。パンは食べるだけでも十分楽しめるし、そこで完結できるが、本著はそういうわけにはいかない。本著に綴られている全ての結晶がここのパンであるからには、ここのパンを食べないことには、本著を読んだ意味がない、といっても言いすぎではないのだ。

この文章を書いていたら、また無性にパネッテリア アリエッタのパンが食べたくなってきた。本物は飽きない、飽きないのが本物。そういうことだ。

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本はどう読むか

本はどう読むか (1972年) (講談社現代新書)

「どう読むか」などと四の五の高尚なことを言わずに、必要に迫られれば誰でも本を読むのだろうし、物語を楽しみたいときにだって読むのだろう、それでいいじゃん、って思うならそれでも全然構わないと思うので本著も本エントリーもスルーしてもらえばよいと思う。ちなみに、本著では本には三つの種類があるとして、必要に迫られて読む本を実用書=「生活が強制する本」、物語を楽しみたいときに読む本を娯楽書=「生活から連れ出す本」としている。そしてもう一つが教養書=「生活を高める本」。本著ではその教養書をいかに読むか、ということを論じている。その辺りに興味がある方のみ、以下読んでいただければ。

教養書は読まなくてもよい本、そう著者は論じている。というのは、教養書にはそれを読む必要や強制、欲求、誘惑、というのが欠けているというのである。対して、実用書には読む必要や強制があり、娯楽書には読む欲求や誘惑がある。では教養書とは何のためにあるのか。

従って、教養書は、実用書や娯楽書が万人のための本であるのに反して、選ばれた少数者のための本である。自分の生活を高めよう、豊かにしようと決心し、そのために努力する人たちのためにだけある本である。(P.52)

著者はさらにこう続ける。

ただ生きるため、ただ死ぬためであれば、実用書や娯楽書はとにかく、教養書など読む必要はない。それが必要になるのは、「立派に」生きるため、「立派に」死ぬためである。(P.53)

背筋が伸びるというか何というか。教養書を読むという行為に対して、その行為の意味を考えたことは今まであまりなかったが、なぜ教養書を読むのか、と聞かれれば、「勉強のため」云々よりも、「生活の質を高めるため」という答えのほうが感覚的にはすっきりくるように思う。元々本を読むのが好きということもあるが、ただ本を読むのが好き、活字を読むのが好き、ということであれば娯楽書を読んでいればいいものを、教養書の類をときに眠い目をこすりながら読んでいるのには、読書が趣味という感覚とは違う、もっと能動的で切実な何かがあった。それが「生活の質を高める」ためだ、というのは、非常にしっくりくる。ような気がする。

さて、そんな教養書をいかに読んでいくか。読書そのもののテクニック云々(速読とかナントカ)については本著ではあまり論じられていないが、その本をいかに忘れないか、あるいはその本からいかに深い理解を得るか、ということについては明確に答えてくれている。

それは、本を読んだら感想を書く、というもの。それだけである。感想といっても「良い本だった」なんていうものではなく、なにがどう良かったのかということにしっかりと踏み込んで書く。しかも他人にも理解されるような文章で。これは今ならブログやメルマガに、書評なり読後感を書くという方法が適していることは言うまでもない。

僕の場合、読書後に以下三つのパターンがある。

  1. 読んで終わり
  2. 読んで読書メモを書く
  3. 読んで読書メモを書いてさらにブログに書く

たまに読書メモを書かずに、いきなりブログに書評や読後感を書くこともあるが、それでも人に読まれることを意識してブログに読後感(書評)を書くと、その本の理解度というのは他の2パターンと較べて格段に違う。こうやってブログに書いている文章が、人に読んでもらえるレベルに達しているかどうかは別として、書くために、通読中に付箋をつけていた部分を読み直したりするなかで、著者の主張、あるいは自分が学んだことの理解の整理というのがなされている。こんなことをしていると、読み終わってからブログに書き終わるまで結構な時間を要することもあるのだが、読んだ本の理解を深めるために必要な時間として、ある意味読書そのものよりも重要な時間だなと個人的には感じている。

本著は、読書、そして本そのものに対する考え方に少なからず、いい意味での変化をもたらす。特に、早く本を読みたい、とかそういう技術的な部分にばかり意識が行きがちな僕のようなタイプの人には、一読することをお勧めする。

よくわかる慰安婦問題

よくわかる慰安婦問題

つい先日(6/26)、米下院外交委員会にて第2次大戦中の従軍慰安婦問題に関して「旧日本軍が若い女性に慰安婦という性奴隷を強要した」として日本政府に対して「明瞭かつ明確な謝罪」を求める決議案が可決された。なぜ今、このような決議がアメリカの議会で取りただされているのか、そしてそもそも慰安婦問題とは何なのか、本著では、以下のように二部仕立てで論じられている。

第一部 慰安婦問題とは何だったのか

第一部では、一九九二年から行われてきた慰安婦問題をめぐる論争の歴史を取り上げる。ここでは日本の中の、事実を曲げて日本を貶めようとする反日勢力(とあえていいたい)との論争について述べる。(「はじめに」より)

第二部 誰が慰安婦問題をつくりあげたのか

第二部では、なぜこのようなことが起きたのかを議論する。国内の反日勢力だけでなく、今度は国外の反日勢力のネットワークができつつある。つまり、国内の反日勢力が国外の反日勢力と組んで、日本包囲網をつくろうとしているということだ。とうとう、その魔の手がアメリカの議会にまで伸びてしまったということである。 (「はじめに」より)

本著を通読してみて、慰安婦問題についてその論争の歴史を踏まえて、包括的に理解することができた。日本人として、この問題はよく理解しておく必要があることを痛感する。また著者の主張する慰安婦問題の「真実」を信じるならば、慰安婦を「Sex Slave(性奴隷)」と呼びそれを旧日本軍が「強要」したとして、日本に「明瞭かつ明確な謝罪」を求めるという米下院外交委員会の決議にも憤りを感じざるをえない。

米下院外交委員会の決議、という行くとこまでいってしまった背景については、本著にて詳しく論じられているのでそちらを参考にしていだくとして、そこに至るまでの日本政府(外務省)の対応にはため息が出る。日本国内の議論では、慰安婦問題のひとつの肝である「強制連行」はなかったということが立証されているのにも関わらず、事実とは異なることが証明されている資料を元にした国連の報告に対して、それを明確に否定・反論しないのはなぜか理解に苦しむ。

慰安婦問題を論じるうえでキーとなるのが、1993年8月4日に、宮澤改造内閣の河野洋平内閣官房長官によって発表されたいわゆる河野談話だ。この河野談話の全文は、本著にも引用されているが、外務省のホームページでも閲覧可能だ(参照)。この談話を普通に読むと、「強制性」について認めたと受け取れることもできる。しかしその「強制」という言葉の定義や解釈に、この問題をややこしくしているひとつの要因がある。河野談話を読み解くにあたり、この「強制」という言葉の定義は非常に重要になるので、少し長くなるがそれを説明している部分を本著より引用させていただく。

資料が出てこない。しかし、韓国は強制があったことを認めろと言っている。日本は先に総理が謝っている。こうした中で、強制は認められなかったという調査結果を出さなければならない。そのまま発表すれば日韓関係は悪化する。しかし資料にないことは言えない。どうするのか。
それでいかにも秀才官僚らしい名案が出てきたのである。それはなんと「強制」という言葉の定義を広げようというものだった。これが、いわゆる「広義の強制」の誕生だった。
本人がいやなものをやらせれば、それは強制である。ふつうは強制連行という場合、権力による強制を考える。誰が連行したのかは客観的な事実だ。
しかし、河野談話の強制は本人の主観を問題とする。いやでしたかと聞いたとき、本人の主観で、いやだったと答えれば、それは強制されたことになる、というものだ。(P.106)

強制連行を証明する調査結果が出ていなかった(今現在も出ていない)なかで、日韓関係の調整・発展を考慮したときに、「広義の強制」という言葉を発明し官房長官の談話として発表したのは、外交のひとつの手段として必要であったのかもしれないが、それによって、慰安婦問題がよりややこしいものになってしまった。「強制があったかどうか」というのが、争点の肝となるのに、その「強制」という言葉の定義・根拠が立場や解釈によって変わってしまうような「広義の強制」という定義・概念を作ってしまったのは、この慰安婦問題の解決をより困難にするのはもとより、日本の国益をおおいに損なうことになってしまっている、と一般市民の僕でも考えてしまう。

戦時中、慰安婦が慰安所と呼ばれる施設で旧日本軍の軍人の性行為の相手になっていたというのは事実であり、戦時中とはいえそのような行為がなされていたことは、非常に悲しいことで、そのような悲劇に対して、事実を突き止め、謝罪すべき部分はきちんと謝罪すべきだと思う。ただ、そのような人権的にあるまじき悲劇の事実を捻じ曲げて、この問題が本著に書いてあるような日本叩きの材料として利用されているならば、それは許されることではない。

慰安婦問題という歴史的・人権的に非常に重要な問題を、これまであまりに知らなすぎたと反省している。日本人として、この問題の正しい知識を持つことが、この問題に向き合う最初の一歩であるように思う。慰安婦問題は普段見聞きする報道のみで理解できるような問題ではない(慰安婦問題に限らず、あらゆる政治的問題に言えることだとは思うけど)。本著だけで全てを理解できるわけではもちろんないが、その理解の入り口として本著は大いに役立つのでは。


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早起きを習慣化する2つの鉄則

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早起きを習慣化する2つの鉄則 :: 早起き自転車通勤男(仮)。 :: あすなろBLOG

 「早起き=本当の朝を持つ」という安岡先生の言葉は、真実を突いている。そんな早起きを習慣化していくために、個人的に意識している鉄則について今日は書きたいと思う。早起きを習慣化する2つの鉄則 | その他(ライフ) | 早起き自転車通勤男(仮)。 | あすなろBLOG

国家の罠

国家の罠 外務省のラスプーチンと呼ばれて

「国策捜査」とは何か。そして、著者の佐藤氏が巻き込まれた(という表現が本著を読んだあとは合っているように思う)「鈴木宗男事件」として知られる「国策捜査」の目的は何だったのか、なぜ、鈴木氏がターゲットとされたのか、西村検事との取調べ記録や著者自身の思索を通して明らかにしている。

国策捜査は「時代のけじめ」をつけるために必要だ、と西村検事はいう。

これは国策捜査なんだから。あなたが捕まった理由は簡単。あなたと鈴木宗男をつなげる事件を作るため。国策捜査は『時代のけじめ』をつけるために必要なんです。時代を転換するために、何か象徴的な事件を作り出して、それを断罪するのです。(P.287)

では、「鈴木宗男事件」を作り上げることで、時代にどんな「けじめ」をつけようとしていたのか。それを、佐藤氏は「内政におけるケインズ型公平配分路線からハイエク型傾斜配分路線への転換」、「外交における地政学的国際協調主義から排外主義的ナショナリズムへの転換」という二つの線で「時代のけじめ」をつけるためだ、と結論する。そして、その線が交錯するところに鈴木宗男氏がいたために、ターゲットとなったと続ける。

本著におけるクライマックスというか、一番の読みどころはこの辺りではないかと感じた。佐藤氏のいう内政・外交における二つの転換にいたるまでの佐藤氏の思索も非常に読み応えがあり、勉強になる。

「国策捜査」が「時代のけじめ」をつけるために行われるとしたら、事件のたびに明示的なターゲットはいるとしても、パラダイム変換を起こし国の方向性を変えていくことで影響をうけるのは我々国民であり歴史なんだろうな、つまり国策捜査のターゲットとは最終的には国民であり歴史なんだろうな、なんて考えてしまったりもする。

本著で書かれている「鈴木宗男」像は、事件当時に報道され世間一般で知られるようになったそれとは大いに異なる。いかに、当時の(そして今も)報道が稚拙で扇動的であったか思い知らされるとともに、そのような報道があれだけの世論の盛り上がりを作ったということに空恐ろしささえ覚える。

本著は、そんな加熱した報道とは全く別次元で書かれている。全編にわたり、常に冷静で客観的な語り口。無論、事件の当事者である佐藤氏自身の言葉で書かれているので、すべて客観的とは言えない部分もあるかもしれないが、著者が見聞きした事実を出来る限りの範囲で世に知らせる、歴史に残そうとする姿勢が滲み出ている。それは検事との取調べにおいても徹底されていて、容疑を否認するも黙秘はせず、検察側の思い描く絵(事件) を書き上げるのを助けるような妥協した供述をするでもなく、真実を述べることで歴史と真剣に対峙する道を選んでいる。そういう姿勢が、512日間という長期の拘留につながるのだが、その拘留期間さえも、強靭な精神力と知的好奇心で、語学・哲学・神学の勉強や思索をして過ごし、自己研磨の場としてしまう。

インテリジェンスオフィサーとしての能力も去ることながら、佐藤氏のそのような精神的強靭さや知的レベルの高さに圧倒されつつ読了した。そして、「鈴木宗男事件」の真実を通して、政治や報道、外交、国家、そういったことに対する考え方が大いに変わった。それだけではなく、読み物としてもグイグイ引きこまれてのめり込める。最近読んだ本のなかでも特に面白く得るものの多い本であった。

UNIQLOCK

 先日、海外出張に行く際にまとめて購入したユニクロのドライポロシャツが、自転車通勤用として大活躍している今日この頃。

 そんなユニクロのオンラインキャンペーンがすこぶる格好いい。

 んん、しばらく見入ってしまった。 → UNIQLOCK

 ブログパーツがCoolなんだ、これがまた↓。

※音楽はOFFにしてあるけど、音が出せる環境の人は是非音楽も聞いてみてください。 

 ついでに、↑に登場するダンサーさんたちのオーディション風景も見れちゃったりする。

 こういうの見ると、なんか感慨深いものがありますな。

 ドライポロシャツ、もっと欲しくなってきた気がしないでもない。とりあえず、週末にユニクロ行ってみよう。そうしよう。