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かんたんで経済的!愛犬のための手作り健康食

かんたんで経済的!愛犬のための手作り健康食

昨日のエントリーでもちらっと触れた[参照]、犬の手作り食に関する本。昨日読んだ『かんたん犬ごはん』に較べて、手作り食やドッグフードに関するさらに詳しい情報が読める。特に、症状別の事例やレシピ等は、非常に参考になる。

本書と『かんたん犬ごはん』を一気に読んで、うちでも手作りごはんを導入することに決めたのだが、いきなり移行するのではなく、まずはドッグフードににんじん等をトッピングしたりして、徐々に慣れていくことにする。「慣れていく」というのは、それを食すうちの子たちももちろんだが、我々飼い主もドッグフードだけあげていた生活から手作り食をあげていくという生活の変化に慣れる、という意味。

にんじんやしらす、じゃがいもなどをトッピングすると、これまでのドッグフードのみのときより、食いつきがいい。目つきが違う。そんな姿を見て、何故これまで頑なにドッグフードしかあげていなかったのか、ちょっとだけ後悔している。アレルギーが怖いから、ドッグフード以外はあげられない、と妄信的に信じきっていたのだが、本書や『かんたん犬ごはん』を読んで、(その素材がアレルゲンである場合を除いて)野菜や肉そのものを食べることが問題になるわけがないし、むしろドッグフードのほうが何が入っているのか分からないよな、と今更ながらに思う。

著者の須崎先生も書いているとおり、だからといって、ドッグフードは完全NG、というつもりはないし、今後も手作り食のみではなく、ドッグフードも時々あげていこうとは思っている。が、手作り食をあげていくことで、よりうちの子たちとの距離が近づくような気がしているし、これまでよりも心身ともに健康になるのではと期待している。

昨日のエントリーでも書いたが、手作り食を考え始めたきっかけはアレルゲン検査だった。検査の結果は、かなり落ち込む内容ではあったが、それによって手作り食を考えるようになったという点だけは、良かったと言えると思う。手作り食によって、うちの子の皮膚疾患が改善することを強く願いつつ、家族みんなでがんばっていこうと思う。

最後に、本書と『かんたん犬ごはん』を読んでいて、ドッグフードをあげていると聞くと烈火のごとく怒る(今のかかりつけとは別の)獣医の先生が「人間だって毎日カロリーメイト食べてたら嫌になるし、健康にもよくないでしょ。」というようなことを言っていたのを思い出した。その話を聞いたときは、「そんなこと言ったって、ドッグフードは各メーカーが一生懸命研究した結果、最適な栄養バランスで作られてるんだから問題ない」なんて思ったものだが、今はその先生の言っていた言葉の意味が理解できる。栄養バランス云々ももちろんだんが、犬に対する愛情という面でも納得できる言葉だ。確かに例えば自分の子どもに、カロリーメイトを毎食食べさせたら、どうなってしまうのか、特に精神的にどんな影響が出てしまうのか、考えるとぞっとする。

愛犬を家族として考えている以上、食に対してもっと真剣に考えるべき。本書と『かんたん犬ごはん』は、そんな当たり前のことを気づかせてくれた。感謝しなければ。

かんたん犬ごはん

かんたん犬ごはん―プチ病気・生活習慣病を撃退!

フレンチブルドッグは皮膚が弱い子が多いらしい。特に、最近生まれた子のなかには遺伝的な皮膚疾患(毛包虫とか)を持っている子も少なくないようだ。ここのところのフレンチブルドッグ人気から、そういったこと(生まれてくる子が遺伝的疾患を持っているかもしれないということ)を気にしない、あるいは知っていて商売のために子犬を増やす、といった心ないブリーダーが多いのも皮膚疾患で苦しむ可哀相な子が増えている大きな要因のひとつだ、と今かかりつけの動物病院の先生は言っていた。おっしゃるとおりなんだろうなと思う。

このブログでも何回か登場しているが、うちは二頭のフレンチブルドッグと一緒に暮らしている。大切な家族だ。うち一頭(パイド)がもうかれこれ10ヶ月以上、皮膚疾患に悩まされている。今、1歳1ヶ月だから、生まれて数ヶ月経ってからずっと苦しんでいるのだ。毛包虫(ニキビダニ)がいたので退治していたら、今度はカビ検査にひっかかる。最近は全身に渡って抜け毛とかゆみがひどく、ほうっておくと血が出るほどかきむしってしまう。体臭もひどい。シャンプーしても三日も立てばベタベタし始める。

あまりにひどいので、先日アレルゲン検査をしたところ、これまであげていたドッグフードの成分(ラム&ライス)が見事に陽性だった。そりゃ治らないわけだ。そして、その検査結果をもとに先生から処方食を勧められたのだが、これがまた高い。これまであげていたフードの4倍近い値段だ。とりあえず、 1Kg買ってきたが、さすがに高すぎるな、というわけで、前から少し気になっていた手作りフードについて色々と調べてみた。

調べていると、本書のヒット率が高い。本書以外にも様々な情報をネットでは見ることができるが、まずは手作り食とは何ぞや、ということをざっくりと知りたかったというのと、掲載されているレシピが見やすかったので、本書を購入した。同時に購入した同著者の『かんたんで経済的!愛犬のための手作り健康食 』のほうがより詳細な情報が書かれてはいるが、まずは本書を読んで手作り食に対する敷居を低くしたほうが個人的には良さそうだ。

手作り食に対する敷居は、栄養バランスや手間等を考えると低くはない。が、本書を読むと決して高すぎる敷居ではないことがよく分かる。そして、手作り食によって、うちの子の皮膚トラブルも時間はかかるかもしれないが良くなっていくのでは、と大きな期待が持てる。

手作り食、がんばろうと思う。

夢をかなえるゾウ

夢をかなえるゾウ

これは・・・、いい。これまで読んだ自己啓発・成功法則本のなかでも最強の部類に入るほど、いい。

カフェで一気読みしたのだが、途中何度かツボにはまり、笑いをこらえるのに必死だった。その上、ラストではグッと来るものがあり、涙をこらえるのに必死になってしまった。困った。家でじっくりと読むんだった。まあ、これから何度も読む本になるとは思うけど。

自己啓発や成功法則系の本は、読んだ瞬間は気持ちが盛り上がり、やる気が起こるものだが、長続きしないことが多い。読んで満足ってパターン。これ、本当に多い。読後あれだけ盛り上がったのに、内容覚えてないとか。ありがち。よくある。

本書では、「ガネーシャ」という像の形をした関西弁で禁煙できないメタボでぐうたらなインドの神様(どんな神様だ・・・)が、成功を願う普通のサラリーマンにあれやこれやと課題を出していく。著者の水野氏としてはガネーシャの出す課題を読者にも実践してほしいと願っているとは思うが、この二人の掛け合いが絶妙すぎて、実践せずに一気読みしてしまった。それは正に息をつかせぬ(ポストイットを貼る手間を惜しむほどの)一気読みだったのだが、笑いと涙という感動で、本書に書かれている内容が、しっくりとしっかりと自分の中に残っている。これはすごい。

そして、ガネーシャの出す課題も決してハードルの高い課題ではなく、むしろ今すぐにやれるものばかり。しかもどれも目新しいものではない。それは、ガネーシャ自身も言っている。

「ワシが教えてきたこと、実は、自分の本棚に入ってる本に書いてあることなんや。ワシの教えてきたことには何の目新しさもないんやで」(P.246)

そう、ガネーシャの言っていることは、僕がこれまでに読んだ本にも書いてある。ガネーシャと主人公である「僕」の絶妙なやり取り(漫才)に引き込まれて一気に読んできたが、このガネーシャの言葉で、我に返る。自己啓発や成功法則の本を読んで、興奮して、これで自分は変われると自信を持つ、そして忘れる、という、これまでに何度も繰り返してきたパターンに陥っている自分に気づくのだ。そして、自己啓発や成功法則の本を読んで自信をもつのは何故か?という「僕」の問いに対するガネーシャの答えがガツンと響く。本書の真骨頂は、ここから一気に加速していく。

その真骨頂さえも、全く目新しいことを言っているわけではないのが、本書のまたすごいところ。それでも何故こんなにも、行動を起こさずにいられないのだろうか。それはきっとガネーシャだから、としか説明のしようがない。

迷わず読めよ、読めば分かるさ。

トランクの中の日本―米従軍カメラマンの非公式記録

トランクの中の日本―米従軍カメラマンの非公式記録

「原爆投下はしょうがない」と原爆を落とされた国の防衛大臣が発言し、「原爆の使用が終戦をもたらし、何百万人もの日本人の命を救った」と原爆を落とした国の核不拡散問題担当特使が発言する。こういう人達は、本書の写真が伝えてくれているような、原爆の恐怖について何を知っているのだろうか。それを知ったうえで、このような発言がなされているとは人として思いたくはないが、こういう人達は、少なくとも、私のような勉強不足で若輩者より、原爆投下によって何が起こるのか、よく知っているはずだ。

原爆を肯定するような発言は決して許されるものではない、と思ってはいたが、本書を読み、真実を捉えた原爆投下後の日本と日本人の写真を見て、その思いはさらに強くなった。強くなるとともに、切なさとか、悲しさとか、怒りとか、やるせなさとか、そういう色々な感情が沸き起こる。そして、誰かの発言云々をどうのこうの言うより先に、自分自身がまず、原爆が投下された歴史上唯一の国の人間として、それとどう向き合うべきなのか考えなければならないということを、本書の写真から思い知らされた。

「どう向き合うべきなのか」-。そう思いつつ読んでいて心に残った言葉が本書に書かれていたので紹介する。本書の写真を撮影したジョー・オダネル氏が終戦後間もなくの福岡で出会った「奇妙な老人」の言葉である。

「息子のような君に言っておきたいのだが、今の日本のありさまをしっかりと見ておくのです。国にもどったら爆弾がどんな惨状を引き起こしたか、アメリカの人々に語りつがなくてはいけません。写真も見せなさい。あの爆弾で私の家族も友人も死んでしまったのです。あなたや私のように罪のない人々だったのに。死ななければならない理由なんて何もなかったのに。私はアメリカを許しますが、忘れてくれといわれてもそれは無理です」 (P.46)

そして、米従軍カメラマンであったジョー・オダネル氏は、私用カメラで撮影した写真をトランクに入れて持ち帰り、43年後にそのトランクを開ける。

今、私たちにできることは、決して忘れないこと。私たちは、もっと知らなければいけない。そして、忘れてはならないのだ。

大人問題

大人問題

絵本作家、五味太郎氏による大人論であり子ども論でもある本書。軽い語り口で書かれてはいるが、鋭い。こんな大人にはなりたくな い、と子供の頃に思っていた「こんな大人」にいつの間にかなってしまっていることに気付き、読んでいて痛すぎる。大人にとっての子供とは、子どもにとっての大人とは。大人と子供、教師と生徒、親と子、そう簡単には割り切れない深いテーマを深くて多眼的な観察眼とシンプルな言葉で論じている本書から、考えさせられることは多い。

五味太郎氏は、子どもを「新人」「ルーキー」という言葉でとらえるのが好きだという。

ぼくは子どもをとらえるときに、「新人」「ルーキー」という言葉でとらえるのが好きです。彼ら新人、ルーキーをずっと見ていると、なんかとても楽しいのです。自分もそうだったんだけど、「こいつ、これから何をするんだろうか」という感じの楽しさ。あるいは「いつ化けるかな」という一種の緊張感。そういう見方、とらえ方、つき合い方、この社会にはあまりにも少ない気がします。(P.155)

この考え方には、思いっきり共感する。

子どもと接するなかで、大人は分かったつもりで、自分たちの経験や何かの本から得た知識をベースに、子どもを理解しようとする。そして、分かってなくても、分かったつもりになる。そうやって出来上がっていく子ども像のなかで、子どもは苦しんで、そんな子どもを理解しようとまた大人は分かったふりをする。

子どもを理解しようとする姿勢は、どんな大人でも持っているとは思うが、自分の常識だけで分かったつもりになるのは、子どもに対して真剣に接しているとはいえない。かといって、どうせ分からないからと、それを放棄するのもまた違う。では、どうするか。本書には、それをじっくりと考えるためのヒントが満載されている。

それでも、五味太郎氏はまだまだ言い足りないようだ。本書は何度か読みたいと思える良書ではあるが、続編『さらに・大人問題』も読まなければ。

仕事で人は成長する

仕事で人は成長する

今年に入って、自己啓発本系の読書をあまりしていなかった。意識してそうしてきつつ、たまにはそういった系統の読書もしないとな、なんて思い始めた頃に本書を読んだ。

一気に読んだが、ページが進むにつれ、どんどん背筋が伸びていく。正座とまではいかないが、とにかく姿勢を正して読みたくなる。個人的には、今年の自己啓発系読書は、本書のみで十分。色々な自己啓発本を読むより、本書を繰り返し読んだ方が、よほどタメになるのでは。

本書では特に真新しいことが書かれているわけではなく、内容的には他の自己啓発本と大差ないと思うが、だからこそ、心に響くのだろう。簡潔で分かりやすいメッセージがとても大切なことばかりを伝えている。各項目のタイトルからしてシンプルで分かりやすく目次を読んだだけでも、大げさではなく半分以上著者の込めたメッセージが伝わってくる。ただ、簡潔だからといって、読み飛ばしたりせず、一字一句じっくりと、そこに込められたメッセージを感じ、しっかりと向き合いながら読みたい本である。

地球を斬る

地球を斬る

国家の罠 外務省のラスプーチンと呼ばれて 」(参照)を著した佐藤優氏によるニュース(主に外交に関する)の斬り方。

「国家の罠」を読んだときにも思ったことだが、普段私達が見聞きするニュースというのは多分に政治的背景や意図というフィルターを通されているな、というのを痛感する。そういったフィルターを通ったニュースを、何も考えずにそのまま読むと本来知っておくべき、あるいは考えるべきことに気付くことが出来ないものだ。

本著は『フジサンケイビジネスアイ』に連載された「地球を斬る」(参照) という”ラスプーチン”佐藤優氏による時事解説の第1~60回(2006/1/9~2007/3/8)を単行本化したもの。時事解説として、今も継続して週一で更新されているこの連載は、その切り口の鋭さから学ぶことが非常に多い。時事解説なので、リアルタイムに読むことに特に意味がある連載ではあるが、本著がおいしいのは、当時の時事解説をそのまま掲載しながら、キーワード解説、検証文、さらにそれを読むだけでも本著を手にする価値があるといってもいいほど読み応えのあるあとがき(「第三次世界大戦」のシナリオ)が追加されているところだ。

連載掲載順にまとめられた本著は、各コラムの内容が多彩で、悪く言えば寄せ集め的ではあるが、全体を通して、佐藤氏の外交官(起訴休職中)・インテリジェンスオフィサーとしての思考法・着眼点は冴え渡っている。特に北朝鮮・イランの核開発等に関する佐藤氏の時事解説は、それらの問題が具体的な脅威として私達の生活に迫っているんだなということを思い知らされる。その辺りは、あとがき(「第三次世界大戦」のシナリオ)に簡潔にまとめられている。

テロリズムも私達にとって、今や「具体的な脅威」だ。空港でのセキュリティチェックがあれだけ強化されたことを考えても、テロリズムは「対岸の火事」とは言えない。そのテロリズムといかに戦っていくべきか、それを「思想戦としてのテロリズム」(P.234)の検証で以下のようにまとめている。

こうしてイタチごっこが続くのであるが、最終的には国民がテロリストの要求には一切屈しないという姿勢を貫き通せばテロはやむ。テロ対策の根幹は、思想戦である。テロに怯まないという思想を国民が共有しなくてはこの戦いに勝つことはできない。(P.237)

テロが身近に起きてから、その脅威に気付いても遅い。それはそこに迫っているという認識を私達個人がまず持つことだ。それさえ出来ずに「テロに怯まない」という強い思想を国民で共有することなどできない。

そういう認識を持つために、日々発信されるニュース(それがどんなフィルターを通っているにせよ)をきちんと収集し、行間にこめられているかもしれない情報まで読み解くという意識が大事だ。それには様々な予備知識を持つことが必要になるが、本著はそれらの予備知識に習得に加えて、ニュースの読み方を鍛錬する上で、非常に良質な教科書といえる。現在も連載中の「地球を斬る」(参照)も合わせて、世界を知る為に読んでおきたい一冊だ。

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パネッテリア アリエッタ – 素人パン屋奇跡の物語 彼らがパンから学んだこと

パネッテリア アリエッタ―素人パン屋奇跡の物語 彼らがパンから学んだこと

五反田駅東口を降りて、右手(東急)方面へ歩道橋を渡り、ソニー通りを品川方面(キャッツシアター方面)へ少し歩くと、右手に小さなパン屋さん「パネッテリアアリエッタ」がある。素材に徹底的にこだわった「本物」の天然酵母パンは、なかなかの値段設定で、ただ空腹を満たすだけためだけに買うには敷居が低くない。

僕はどちらかというと、「食」にこだわりを持っていない。普段はコンビニで買えるような菓子パンの類で満足しているが、本著を読んで、その「本物のこだわり」で作られたパンというのがどんなものなのか知りたい欲求に駆られたので、五反田まで足を運び、なけなしの小遣いをはたいて買って食べてみた。

食したのは、「パネッテリア アリエッタ」のホームページで紹介されている(参照) 人気の三品。パン・オ・ミエーレ、メスコラータ、フェニックス。本著を読んで、その「本物へのこだわり」かたに少なからず感銘を受けていたという、気持ちの高揚感を差し引いても、これらのパンは旨い。健康志向の天然酵母パン、というと味気ないイメージがわいていたが、ここのパンはそんなイメージとはかけ離れて、とにかく旨い。こんなパンを食べてしまうと、コンビニで買って食べていた菓子パンは、まさに「お菓子」でしかなかったんだなとしみじみ思う。

いや、これまでももちろん、菓子パン以外のパンを食べたことはあるが、ここのパンを食べたときほどの衝撃はなかった。多分、本著を読まずに、何も知らずにここのパンを食べたとしても、同様な感動を受けただろうなと思う。素人なので、うまく言い表せないが、とにかく旨いんだ。身体だけではなくて、心に訴えてくるというか何というか。

残念なのは、パネッテリアアリエッタのパンを食べる前に、本著を読んでしまったことだ。食べて感動してから、本著を読んで、その味の秘密を知りたかったなとつくづく思う。本著には、食へのこだわりだけではなく、商売をしていくうえで本物にこだわるということがどれほど大事なことかという、ある意味で商いの基本というか本質が書かれている。全ての商売人、企業人にお勧めな本ではあるが、読む前にまず、パネッテリアアリエッタのパンを食べることを強くお勧めする。食べて感動してもらって、その味の秘密を本著で紐解いていく、というのが、正しい本著の食し方。

もしどうしてもパンを食べる前に本著を読むことになったとしても、読んだら必ずパネッテリアアリエッタのパンを食べるべき。パンは食べるだけでも十分楽しめるし、そこで完結できるが、本著はそういうわけにはいかない。本著に綴られている全ての結晶がここのパンであるからには、ここのパンを食べないことには、本著を読んだ意味がない、といっても言いすぎではないのだ。

この文章を書いていたら、また無性にパネッテリア アリエッタのパンが食べたくなってきた。本物は飽きない、飽きないのが本物。そういうことだ。

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本はどう読むか

本はどう読むか (1972年) (講談社現代新書)

「どう読むか」などと四の五の高尚なことを言わずに、必要に迫られれば誰でも本を読むのだろうし、物語を楽しみたいときにだって読むのだろう、それでいいじゃん、って思うならそれでも全然構わないと思うので本著も本エントリーもスルーしてもらえばよいと思う。ちなみに、本著では本には三つの種類があるとして、必要に迫られて読む本を実用書=「生活が強制する本」、物語を楽しみたいときに読む本を娯楽書=「生活から連れ出す本」としている。そしてもう一つが教養書=「生活を高める本」。本著ではその教養書をいかに読むか、ということを論じている。その辺りに興味がある方のみ、以下読んでいただければ。

教養書は読まなくてもよい本、そう著者は論じている。というのは、教養書にはそれを読む必要や強制、欲求、誘惑、というのが欠けているというのである。対して、実用書には読む必要や強制があり、娯楽書には読む欲求や誘惑がある。では教養書とは何のためにあるのか。

従って、教養書は、実用書や娯楽書が万人のための本であるのに反して、選ばれた少数者のための本である。自分の生活を高めよう、豊かにしようと決心し、そのために努力する人たちのためにだけある本である。(P.52)

著者はさらにこう続ける。

ただ生きるため、ただ死ぬためであれば、実用書や娯楽書はとにかく、教養書など読む必要はない。それが必要になるのは、「立派に」生きるため、「立派に」死ぬためである。(P.53)

背筋が伸びるというか何というか。教養書を読むという行為に対して、その行為の意味を考えたことは今まであまりなかったが、なぜ教養書を読むのか、と聞かれれば、「勉強のため」云々よりも、「生活の質を高めるため」という答えのほうが感覚的にはすっきりくるように思う。元々本を読むのが好きということもあるが、ただ本を読むのが好き、活字を読むのが好き、ということであれば娯楽書を読んでいればいいものを、教養書の類をときに眠い目をこすりながら読んでいるのには、読書が趣味という感覚とは違う、もっと能動的で切実な何かがあった。それが「生活の質を高める」ためだ、というのは、非常にしっくりくる。ような気がする。

さて、そんな教養書をいかに読んでいくか。読書そのもののテクニック云々(速読とかナントカ)については本著ではあまり論じられていないが、その本をいかに忘れないか、あるいはその本からいかに深い理解を得るか、ということについては明確に答えてくれている。

それは、本を読んだら感想を書く、というもの。それだけである。感想といっても「良い本だった」なんていうものではなく、なにがどう良かったのかということにしっかりと踏み込んで書く。しかも他人にも理解されるような文章で。これは今ならブログやメルマガに、書評なり読後感を書くという方法が適していることは言うまでもない。

僕の場合、読書後に以下三つのパターンがある。

  1. 読んで終わり
  2. 読んで読書メモを書く
  3. 読んで読書メモを書いてさらにブログに書く

たまに読書メモを書かずに、いきなりブログに書評や読後感を書くこともあるが、それでも人に読まれることを意識してブログに読後感(書評)を書くと、その本の理解度というのは他の2パターンと較べて格段に違う。こうやってブログに書いている文章が、人に読んでもらえるレベルに達しているかどうかは別として、書くために、通読中に付箋をつけていた部分を読み直したりするなかで、著者の主張、あるいは自分が学んだことの理解の整理というのがなされている。こんなことをしていると、読み終わってからブログに書き終わるまで結構な時間を要することもあるのだが、読んだ本の理解を深めるために必要な時間として、ある意味読書そのものよりも重要な時間だなと個人的には感じている。

本著は、読書、そして本そのものに対する考え方に少なからず、いい意味での変化をもたらす。特に、早く本を読みたい、とかそういう技術的な部分にばかり意識が行きがちな僕のようなタイプの人には、一読することをお勧めする。

よくわかる慰安婦問題

よくわかる慰安婦問題

つい先日(6/26)、米下院外交委員会にて第2次大戦中の従軍慰安婦問題に関して「旧日本軍が若い女性に慰安婦という性奴隷を強要した」として日本政府に対して「明瞭かつ明確な謝罪」を求める決議案が可決された。なぜ今、このような決議がアメリカの議会で取りただされているのか、そしてそもそも慰安婦問題とは何なのか、本著では、以下のように二部仕立てで論じられている。

第一部 慰安婦問題とは何だったのか

第一部では、一九九二年から行われてきた慰安婦問題をめぐる論争の歴史を取り上げる。ここでは日本の中の、事実を曲げて日本を貶めようとする反日勢力(とあえていいたい)との論争について述べる。(「はじめに」より)

第二部 誰が慰安婦問題をつくりあげたのか

第二部では、なぜこのようなことが起きたのかを議論する。国内の反日勢力だけでなく、今度は国外の反日勢力のネットワークができつつある。つまり、国内の反日勢力が国外の反日勢力と組んで、日本包囲網をつくろうとしているということだ。とうとう、その魔の手がアメリカの議会にまで伸びてしまったということである。 (「はじめに」より)

本著を通読してみて、慰安婦問題についてその論争の歴史を踏まえて、包括的に理解することができた。日本人として、この問題はよく理解しておく必要があることを痛感する。また著者の主張する慰安婦問題の「真実」を信じるならば、慰安婦を「Sex Slave(性奴隷)」と呼びそれを旧日本軍が「強要」したとして、日本に「明瞭かつ明確な謝罪」を求めるという米下院外交委員会の決議にも憤りを感じざるをえない。

米下院外交委員会の決議、という行くとこまでいってしまった背景については、本著にて詳しく論じられているのでそちらを参考にしていだくとして、そこに至るまでの日本政府(外務省)の対応にはため息が出る。日本国内の議論では、慰安婦問題のひとつの肝である「強制連行」はなかったということが立証されているのにも関わらず、事実とは異なることが証明されている資料を元にした国連の報告に対して、それを明確に否定・反論しないのはなぜか理解に苦しむ。

慰安婦問題を論じるうえでキーとなるのが、1993年8月4日に、宮澤改造内閣の河野洋平内閣官房長官によって発表されたいわゆる河野談話だ。この河野談話の全文は、本著にも引用されているが、外務省のホームページでも閲覧可能だ(参照)。この談話を普通に読むと、「強制性」について認めたと受け取れることもできる。しかしその「強制」という言葉の定義や解釈に、この問題をややこしくしているひとつの要因がある。河野談話を読み解くにあたり、この「強制」という言葉の定義は非常に重要になるので、少し長くなるがそれを説明している部分を本著より引用させていただく。

資料が出てこない。しかし、韓国は強制があったことを認めろと言っている。日本は先に総理が謝っている。こうした中で、強制は認められなかったという調査結果を出さなければならない。そのまま発表すれば日韓関係は悪化する。しかし資料にないことは言えない。どうするのか。
それでいかにも秀才官僚らしい名案が出てきたのである。それはなんと「強制」という言葉の定義を広げようというものだった。これが、いわゆる「広義の強制」の誕生だった。
本人がいやなものをやらせれば、それは強制である。ふつうは強制連行という場合、権力による強制を考える。誰が連行したのかは客観的な事実だ。
しかし、河野談話の強制は本人の主観を問題とする。いやでしたかと聞いたとき、本人の主観で、いやだったと答えれば、それは強制されたことになる、というものだ。(P.106)

強制連行を証明する調査結果が出ていなかった(今現在も出ていない)なかで、日韓関係の調整・発展を考慮したときに、「広義の強制」という言葉を発明し官房長官の談話として発表したのは、外交のひとつの手段として必要であったのかもしれないが、それによって、慰安婦問題がよりややこしいものになってしまった。「強制があったかどうか」というのが、争点の肝となるのに、その「強制」という言葉の定義・根拠が立場や解釈によって変わってしまうような「広義の強制」という定義・概念を作ってしまったのは、この慰安婦問題の解決をより困難にするのはもとより、日本の国益をおおいに損なうことになってしまっている、と一般市民の僕でも考えてしまう。

戦時中、慰安婦が慰安所と呼ばれる施設で旧日本軍の軍人の性行為の相手になっていたというのは事実であり、戦時中とはいえそのような行為がなされていたことは、非常に悲しいことで、そのような悲劇に対して、事実を突き止め、謝罪すべき部分はきちんと謝罪すべきだと思う。ただ、そのような人権的にあるまじき悲劇の事実を捻じ曲げて、この問題が本著に書いてあるような日本叩きの材料として利用されているならば、それは許されることではない。

慰安婦問題という歴史的・人権的に非常に重要な問題を、これまであまりに知らなすぎたと反省している。日本人として、この問題の正しい知識を持つことが、この問題に向き合う最初の一歩であるように思う。慰安婦問題は普段見聞きする報道のみで理解できるような問題ではない(慰安婦問題に限らず、あらゆる政治的問題に言えることだとは思うけど)。本著だけで全てを理解できるわけではもちろんないが、その理解の入り口として本著は大いに役立つのでは。


よくわかる慰安婦問題

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