Monthly Archives: July 2007

パネッテリア アリエッタ – 素人パン屋奇跡の物語 彼らがパンから学んだこと

パネッテリア アリエッタ―素人パン屋奇跡の物語 彼らがパンから学んだこと

五反田駅東口を降りて、右手(東急)方面へ歩道橋を渡り、ソニー通りを品川方面(キャッツシアター方面)へ少し歩くと、右手に小さなパン屋さん「パネッテリアアリエッタ」がある。素材に徹底的にこだわった「本物」の天然酵母パンは、なかなかの値段設定で、ただ空腹を満たすだけためだけに買うには敷居が低くない。

僕はどちらかというと、「食」にこだわりを持っていない。普段はコンビニで買えるような菓子パンの類で満足しているが、本著を読んで、その「本物のこだわり」で作られたパンというのがどんなものなのか知りたい欲求に駆られたので、五反田まで足を運び、なけなしの小遣いをはたいて買って食べてみた。

食したのは、「パネッテリア アリエッタ」のホームページで紹介されている(参照) 人気の三品。パン・オ・ミエーレ、メスコラータ、フェニックス。本著を読んで、その「本物へのこだわり」かたに少なからず感銘を受けていたという、気持ちの高揚感を差し引いても、これらのパンは旨い。健康志向の天然酵母パン、というと味気ないイメージがわいていたが、ここのパンはそんなイメージとはかけ離れて、とにかく旨い。こんなパンを食べてしまうと、コンビニで買って食べていた菓子パンは、まさに「お菓子」でしかなかったんだなとしみじみ思う。

いや、これまでももちろん、菓子パン以外のパンを食べたことはあるが、ここのパンを食べたときほどの衝撃はなかった。多分、本著を読まずに、何も知らずにここのパンを食べたとしても、同様な感動を受けただろうなと思う。素人なので、うまく言い表せないが、とにかく旨いんだ。身体だけではなくて、心に訴えてくるというか何というか。

残念なのは、パネッテリアアリエッタのパンを食べる前に、本著を読んでしまったことだ。食べて感動してから、本著を読んで、その味の秘密を知りたかったなとつくづく思う。本著には、食へのこだわりだけではなく、商売をしていくうえで本物にこだわるということがどれほど大事なことかという、ある意味で商いの基本というか本質が書かれている。全ての商売人、企業人にお勧めな本ではあるが、読む前にまず、パネッテリアアリエッタのパンを食べることを強くお勧めする。食べて感動してもらって、その味の秘密を本著で紐解いていく、というのが、正しい本著の食し方。

もしどうしてもパンを食べる前に本著を読むことになったとしても、読んだら必ずパネッテリアアリエッタのパンを食べるべき。パンは食べるだけでも十分楽しめるし、そこで完結できるが、本著はそういうわけにはいかない。本著に綴られている全ての結晶がここのパンであるからには、ここのパンを食べないことには、本著を読んだ意味がない、といっても言いすぎではないのだ。

この文章を書いていたら、また無性にパネッテリア アリエッタのパンが食べたくなってきた。本物は飽きない、飽きないのが本物。そういうことだ。

See also

本はどう読むか

本はどう読むか (1972年) (講談社現代新書)

「どう読むか」などと四の五の高尚なことを言わずに、必要に迫られれば誰でも本を読むのだろうし、物語を楽しみたいときにだって読むのだろう、それでいいじゃん、って思うならそれでも全然構わないと思うので本著も本エントリーもスルーしてもらえばよいと思う。ちなみに、本著では本には三つの種類があるとして、必要に迫られて読む本を実用書=「生活が強制する本」、物語を楽しみたいときに読む本を娯楽書=「生活から連れ出す本」としている。そしてもう一つが教養書=「生活を高める本」。本著ではその教養書をいかに読むか、ということを論じている。その辺りに興味がある方のみ、以下読んでいただければ。

教養書は読まなくてもよい本、そう著者は論じている。というのは、教養書にはそれを読む必要や強制、欲求、誘惑、というのが欠けているというのである。対して、実用書には読む必要や強制があり、娯楽書には読む欲求や誘惑がある。では教養書とは何のためにあるのか。

従って、教養書は、実用書や娯楽書が万人のための本であるのに反して、選ばれた少数者のための本である。自分の生活を高めよう、豊かにしようと決心し、そのために努力する人たちのためにだけある本である。(P.52)

著者はさらにこう続ける。

ただ生きるため、ただ死ぬためであれば、実用書や娯楽書はとにかく、教養書など読む必要はない。それが必要になるのは、「立派に」生きるため、「立派に」死ぬためである。(P.53)

背筋が伸びるというか何というか。教養書を読むという行為に対して、その行為の意味を考えたことは今まであまりなかったが、なぜ教養書を読むのか、と聞かれれば、「勉強のため」云々よりも、「生活の質を高めるため」という答えのほうが感覚的にはすっきりくるように思う。元々本を読むのが好きということもあるが、ただ本を読むのが好き、活字を読むのが好き、ということであれば娯楽書を読んでいればいいものを、教養書の類をときに眠い目をこすりながら読んでいるのには、読書が趣味という感覚とは違う、もっと能動的で切実な何かがあった。それが「生活の質を高める」ためだ、というのは、非常にしっくりくる。ような気がする。

さて、そんな教養書をいかに読んでいくか。読書そのもののテクニック云々(速読とかナントカ)については本著ではあまり論じられていないが、その本をいかに忘れないか、あるいはその本からいかに深い理解を得るか、ということについては明確に答えてくれている。

それは、本を読んだら感想を書く、というもの。それだけである。感想といっても「良い本だった」なんていうものではなく、なにがどう良かったのかということにしっかりと踏み込んで書く。しかも他人にも理解されるような文章で。これは今ならブログやメルマガに、書評なり読後感を書くという方法が適していることは言うまでもない。

僕の場合、読書後に以下三つのパターンがある。

  1. 読んで終わり
  2. 読んで読書メモを書く
  3. 読んで読書メモを書いてさらにブログに書く

たまに読書メモを書かずに、いきなりブログに書評や読後感を書くこともあるが、それでも人に読まれることを意識してブログに読後感(書評)を書くと、その本の理解度というのは他の2パターンと較べて格段に違う。こうやってブログに書いている文章が、人に読んでもらえるレベルに達しているかどうかは別として、書くために、通読中に付箋をつけていた部分を読み直したりするなかで、著者の主張、あるいは自分が学んだことの理解の整理というのがなされている。こんなことをしていると、読み終わってからブログに書き終わるまで結構な時間を要することもあるのだが、読んだ本の理解を深めるために必要な時間として、ある意味読書そのものよりも重要な時間だなと個人的には感じている。

本著は、読書、そして本そのものに対する考え方に少なからず、いい意味での変化をもたらす。特に、早く本を読みたい、とかそういう技術的な部分にばかり意識が行きがちな僕のようなタイプの人には、一読することをお勧めする。

よくわかる慰安婦問題

よくわかる慰安婦問題

つい先日(6/26)、米下院外交委員会にて第2次大戦中の従軍慰安婦問題に関して「旧日本軍が若い女性に慰安婦という性奴隷を強要した」として日本政府に対して「明瞭かつ明確な謝罪」を求める決議案が可決された。なぜ今、このような決議がアメリカの議会で取りただされているのか、そしてそもそも慰安婦問題とは何なのか、本著では、以下のように二部仕立てで論じられている。

第一部 慰安婦問題とは何だったのか

第一部では、一九九二年から行われてきた慰安婦問題をめぐる論争の歴史を取り上げる。ここでは日本の中の、事実を曲げて日本を貶めようとする反日勢力(とあえていいたい)との論争について述べる。(「はじめに」より)

第二部 誰が慰安婦問題をつくりあげたのか

第二部では、なぜこのようなことが起きたのかを議論する。国内の反日勢力だけでなく、今度は国外の反日勢力のネットワークができつつある。つまり、国内の反日勢力が国外の反日勢力と組んで、日本包囲網をつくろうとしているということだ。とうとう、その魔の手がアメリカの議会にまで伸びてしまったということである。 (「はじめに」より)

本著を通読してみて、慰安婦問題についてその論争の歴史を踏まえて、包括的に理解することができた。日本人として、この問題はよく理解しておく必要があることを痛感する。また著者の主張する慰安婦問題の「真実」を信じるならば、慰安婦を「Sex Slave(性奴隷)」と呼びそれを旧日本軍が「強要」したとして、日本に「明瞭かつ明確な謝罪」を求めるという米下院外交委員会の決議にも憤りを感じざるをえない。

米下院外交委員会の決議、という行くとこまでいってしまった背景については、本著にて詳しく論じられているのでそちらを参考にしていだくとして、そこに至るまでの日本政府(外務省)の対応にはため息が出る。日本国内の議論では、慰安婦問題のひとつの肝である「強制連行」はなかったということが立証されているのにも関わらず、事実とは異なることが証明されている資料を元にした国連の報告に対して、それを明確に否定・反論しないのはなぜか理解に苦しむ。

慰安婦問題を論じるうえでキーとなるのが、1993年8月4日に、宮澤改造内閣の河野洋平内閣官房長官によって発表されたいわゆる河野談話だ。この河野談話の全文は、本著にも引用されているが、外務省のホームページでも閲覧可能だ(参照)。この談話を普通に読むと、「強制性」について認めたと受け取れることもできる。しかしその「強制」という言葉の定義や解釈に、この問題をややこしくしているひとつの要因がある。河野談話を読み解くにあたり、この「強制」という言葉の定義は非常に重要になるので、少し長くなるがそれを説明している部分を本著より引用させていただく。

資料が出てこない。しかし、韓国は強制があったことを認めろと言っている。日本は先に総理が謝っている。こうした中で、強制は認められなかったという調査結果を出さなければならない。そのまま発表すれば日韓関係は悪化する。しかし資料にないことは言えない。どうするのか。
それでいかにも秀才官僚らしい名案が出てきたのである。それはなんと「強制」という言葉の定義を広げようというものだった。これが、いわゆる「広義の強制」の誕生だった。
本人がいやなものをやらせれば、それは強制である。ふつうは強制連行という場合、権力による強制を考える。誰が連行したのかは客観的な事実だ。
しかし、河野談話の強制は本人の主観を問題とする。いやでしたかと聞いたとき、本人の主観で、いやだったと答えれば、それは強制されたことになる、というものだ。(P.106)

強制連行を証明する調査結果が出ていなかった(今現在も出ていない)なかで、日韓関係の調整・発展を考慮したときに、「広義の強制」という言葉を発明し官房長官の談話として発表したのは、外交のひとつの手段として必要であったのかもしれないが、それによって、慰安婦問題がよりややこしいものになってしまった。「強制があったかどうか」というのが、争点の肝となるのに、その「強制」という言葉の定義・根拠が立場や解釈によって変わってしまうような「広義の強制」という定義・概念を作ってしまったのは、この慰安婦問題の解決をより困難にするのはもとより、日本の国益をおおいに損なうことになってしまっている、と一般市民の僕でも考えてしまう。

戦時中、慰安婦が慰安所と呼ばれる施設で旧日本軍の軍人の性行為の相手になっていたというのは事実であり、戦時中とはいえそのような行為がなされていたことは、非常に悲しいことで、そのような悲劇に対して、事実を突き止め、謝罪すべき部分はきちんと謝罪すべきだと思う。ただ、そのような人権的にあるまじき悲劇の事実を捻じ曲げて、この問題が本著に書いてあるような日本叩きの材料として利用されているならば、それは許されることではない。

慰安婦問題という歴史的・人権的に非常に重要な問題を、これまであまりに知らなすぎたと反省している。日本人として、この問題の正しい知識を持つことが、この問題に向き合う最初の一歩であるように思う。慰安婦問題は普段見聞きする報道のみで理解できるような問題ではない(慰安婦問題に限らず、あらゆる政治的問題に言えることだとは思うけど)。本著だけで全てを理解できるわけではもちろんないが、その理解の入り口として本著は大いに役立つのでは。


よくわかる慰安婦問題

Amazonで購入
livedoor BOOKS
書評/社会・政治

早起きを習慣化する2つの鉄則

 あすなろBLOG更新情報。

早起きを習慣化する2つの鉄則 :: 早起き自転車通勤男(仮)。 :: あすなろBLOG

 「早起き=本当の朝を持つ」という安岡先生の言葉は、真実を突いている。そんな早起きを習慣化していくために、個人的に意識している鉄則について今日は書きたいと思う。早起きを習慣化する2つの鉄則 | その他(ライフ) | 早起き自転車通勤男(仮)。 | あすなろBLOG

国家の罠

国家の罠 外務省のラスプーチンと呼ばれて

「国策捜査」とは何か。そして、著者の佐藤氏が巻き込まれた(という表現が本著を読んだあとは合っているように思う)「鈴木宗男事件」として知られる「国策捜査」の目的は何だったのか、なぜ、鈴木氏がターゲットとされたのか、西村検事との取調べ記録や著者自身の思索を通して明らかにしている。

国策捜査は「時代のけじめ」をつけるために必要だ、と西村検事はいう。

これは国策捜査なんだから。あなたが捕まった理由は簡単。あなたと鈴木宗男をつなげる事件を作るため。国策捜査は『時代のけじめ』をつけるために必要なんです。時代を転換するために、何か象徴的な事件を作り出して、それを断罪するのです。(P.287)

では、「鈴木宗男事件」を作り上げることで、時代にどんな「けじめ」をつけようとしていたのか。それを、佐藤氏は「内政におけるケインズ型公平配分路線からハイエク型傾斜配分路線への転換」、「外交における地政学的国際協調主義から排外主義的ナショナリズムへの転換」という二つの線で「時代のけじめ」をつけるためだ、と結論する。そして、その線が交錯するところに鈴木宗男氏がいたために、ターゲットとなったと続ける。

本著におけるクライマックスというか、一番の読みどころはこの辺りではないかと感じた。佐藤氏のいう内政・外交における二つの転換にいたるまでの佐藤氏の思索も非常に読み応えがあり、勉強になる。

「国策捜査」が「時代のけじめ」をつけるために行われるとしたら、事件のたびに明示的なターゲットはいるとしても、パラダイム変換を起こし国の方向性を変えていくことで影響をうけるのは我々国民であり歴史なんだろうな、つまり国策捜査のターゲットとは最終的には国民であり歴史なんだろうな、なんて考えてしまったりもする。

本著で書かれている「鈴木宗男」像は、事件当時に報道され世間一般で知られるようになったそれとは大いに異なる。いかに、当時の(そして今も)報道が稚拙で扇動的であったか思い知らされるとともに、そのような報道があれだけの世論の盛り上がりを作ったということに空恐ろしささえ覚える。

本著は、そんな加熱した報道とは全く別次元で書かれている。全編にわたり、常に冷静で客観的な語り口。無論、事件の当事者である佐藤氏自身の言葉で書かれているので、すべて客観的とは言えない部分もあるかもしれないが、著者が見聞きした事実を出来る限りの範囲で世に知らせる、歴史に残そうとする姿勢が滲み出ている。それは検事との取調べにおいても徹底されていて、容疑を否認するも黙秘はせず、検察側の思い描く絵(事件) を書き上げるのを助けるような妥協した供述をするでもなく、真実を述べることで歴史と真剣に対峙する道を選んでいる。そういう姿勢が、512日間という長期の拘留につながるのだが、その拘留期間さえも、強靭な精神力と知的好奇心で、語学・哲学・神学の勉強や思索をして過ごし、自己研磨の場としてしまう。

インテリジェンスオフィサーとしての能力も去ることながら、佐藤氏のそのような精神的強靭さや知的レベルの高さに圧倒されつつ読了した。そして、「鈴木宗男事件」の真実を通して、政治や報道、外交、国家、そういったことに対する考え方が大いに変わった。それだけではなく、読み物としてもグイグイ引きこまれてのめり込める。最近読んだ本のなかでも特に面白く得るものの多い本であった。

UNIQLOCK

 先日、海外出張に行く際にまとめて購入したユニクロのドライポロシャツが、自転車通勤用として大活躍している今日この頃。

 そんなユニクロのオンラインキャンペーンがすこぶる格好いい。

 んん、しばらく見入ってしまった。 → UNIQLOCK

 ブログパーツがCoolなんだ、これがまた↓。

※音楽はOFFにしてあるけど、音が出せる環境の人は是非音楽も聞いてみてください。 

 ついでに、↑に登場するダンサーさんたちのオーディション風景も見れちゃったりする。

 こういうの見ると、なんか感慨深いものがありますな。

 ドライポロシャツ、もっと欲しくなってきた気がしないでもない。とりあえず、週末にユニクロ行ってみよう。そうしよう。

超地域密着マーケティングのススメ

超地域密着マーケティングのススメ (アスカビジネス)

「お客様の人生の登場人物になる」

これが本著のエッセンス。このキーワードを軸に、数多くのマーケティング本と昔ながらの地域に根差した商売手法を融合したのが、本著のタイトルでもある「超地域密着マーケティング」。そのマーケティング手法が著者の実体験を通して紹介されている。そこには、お客様との関係をいかに大切にするかという商売の本質がある。

地域における商売の基本は、やはり、お客様との人間関係のようだ。人間関係というと、何となく冷たいというか客観的な感じもするが、要は「ご近所付き合い」ということだ。その「ご近所付き合い」を通して、お客様との関係を大事にすることで、そのお客様の人生の登場人物となっていく。

妻の実家では、東京のある下町で30年近く小さな喫茶店を営んできている。まさにその地域に根差したこの喫茶店にくるお客様はほとんどが顔見知りで、マスターはほとんど全員のお客様の特徴を知っている。「この人は、この時間にきて、これを飲む」とか、「あの人は、話し出すと長い」とか。近くの商店街に買出しにいっても、みんな顔を知っているし、お互いにサポートしあっている。大きな商売をやるのもいいが、こんな風に地域に根差して、お互いがお互いを知った仲で、助け合いながら商売をしていく、というのがそもそも「商い」と呼ばれているもので、そこには「人とのつながり」が土台として存在している。

どんなに大きなビジネスをしていようとも、根本にあるのは、「商い」であり「人とのつながり」であるということを忘れてはならない。それを忘れてしまっている会社が、変な不祥事を起こしているんだろうなと思う。そういう会社の経営者は、「商い」「人とのつながり」の基本を教えてくれる本著をまず読んでみたらどうか。

数学的センスが身につく練習帳

学校の算数・数学の授業だけでは知りえないような、算数・数学のトリビアが満載の本著。お父さんと子供の会話形式という本文が分かりやすく、加えて各トリビアのまとめや図表が理解をより助けている。

「数学的センスが身につく」と題しているだけのことはあり、本著を一読するだけでも、少なからず数学あるいは数字そのものに対する考え方が柔軟になると同時に深くなる。「本書は小学生レベル」(「はじめに」より)と著者の野口氏は述べているが、その読者対象は決して子供に限っているわけではなく、むしろ頭が凝り固まった数学的センスのない大人こそ読むべき本のように感じた。

なかでも、速算術として紹介されている複数桁どうしの計算方法などは、知っていて損はない。インドでは、かけ算の「九九」が二桁あるという話をどこかで見聞きしたときに、ただ全てを暗記するだけではなく、数字のトリックとも言える様な計算方法をインドの人はセンスとして身につけているんだろうなと感じたものだが、恐らく本著で取り上げられているような速算術もそのひとつとなっているんだろうなと思う。

「センス」という言葉には、感性とかそういった感覚的なニュアンスが含まれていて、ものによってはセンスの磨きようがないものあるかもしれないが、「数学的センス」に限っては、こういったトリビアをどれだけ知っているか、ということがセンスを磨くうえでとても重要になってくるように思う。そういう意味でいうと、本著を読むことで数学的センスは確実に身につく。

個人的には、数学的各トリビアよりも、第4章「論理的思考を身につけよう!」で紹介されているような「パラドックスの話」や「じゃんけん必勝法」等が楽しめた。また、第3章「算数脳を鍛えよう!」で紹介されている「ミツバチの巣穴」は自然界にも存在する数字の不思議としてとても興味深い内容だった。

本著の内容は、ぜひ子供たちにも伝えたいところだが、子供に伝える前に、まずは親が本著を読んで、算数・数学・数字そのものを楽しみ好きになることだ。自分自身が楽しめないようなことを、子供に教えようとしたり、やらせようとするのには無理が生じてくる。

「数字は苦手」という人でも大丈夫。「紙を50回折るとどうなる?」という問いに対する答えを知りたいと思う気持ちが少しでもあれば、充分数字を楽しめる。答えは本著42ページにて。


数学的センスが身につく練習帳

Amazonで購入
livedoor BOOKS
書評/サイエンス

夏は手間がかかる自転車通勤

 あすなろBLOG更新情報。

夏は手間がかかる自転車通勤 :: 早起き自転車通勤男(仮)。 :: あすなろBLOG

せめて通勤のときくらい、夏の自然の暑さを感じつつ、汗をちゃんとかいて水を飲めば、夏バテになんてならないものだ。夏は手間がかかる自転車通勤 | その他(ライフ) | 早起き自転車通勤男(仮)。 | あすなろBLOG

 約二ヶ月振りに更新。もっと更新頻度上げていかないと、だな。

メモハック決定版

 いつでもどこでもメモできる状態にしておきたい、というメモ魔の欲求を満たすために、色々な方法を試みてきたのだが、今日、ふと思いついた方法があまりにイケてるので、ここにメモしておく。

 ここにたどり着くまでは、RHODIAのメモパッド#11に皮カバーをつけたものや、DAIGOの鉛筆付縦開き手帳を使ったりしていた。だけど、どちらもズボンのポケットにいれておくとペンが壊れたり、鉛筆がなくなったりと、いかんともしがたい状況に陥ることもよくあって、どうもしっくりきていなかった。RHODIAは皮カバーに入れて持ち歩くと、意外とかさばるし。

 で、思いついた方法ってのが、以下。超シンプル。

 必要なものは、リング付ポケットメモ(どこのブランドのものでも可)と、ZEBRAのpenpodのみ。そして、penpodをリング付ポケットメモに取り付ければ、どこにでもメモ帳をペン付で持ち歩ける。

MemoHack_01.JPG MemoHack_02.JPG

 シンプルな方法だけど、これはいい。個人的に感じるメリットは以下。

  • 安い。
  • ペンがなくならない。
  • なるべくリングが小さくて薄いリング付ポケットメモを選べば、全然かさばらない。
  • メモ帳をズボンのポケットに入れて、penpodをポケットから出しておけば、メモを取り出すのも瞬時。
  • リング付ポケットメモはどこでも手に入る(penpodは否)。
  • 見た目も悪くない。(と思う)

 というわけで、いつでもどこでもメモしたいというメモ魔の欲求は、これで完全に満たされた、と思う。しばらく使ってみたら、また何か不都合が出たりするかもしれないけど、それはそれでまた一興。

MemoHack_03.JPG

See also