Monthly Archives: April 2008

Getting Started

 『何事も始めるのに遅すぎるということはない』と誰かが言っている通り、プログラミングを30歳超えて始めるのも遅すぎるなんてことはない、ということだ。

 というわけで、Rubyの勉強を始めた。プログラミングは、もう8年近く前にほんのちょっとかじった程度なので、ほとんど素人・初心者である。そんな30過ぎ男に最適なテキストはないか、と検索してみると、Learn to Program, by Chris Pineが見つかった。簡単な英語で書かれているので、原文のままでも十分勉強できるけど、とても良質な日本語訳(参照)もあるので、原文をベースに、ちょっと理解しづらいような部分を日本語訳と照らし合わせながら勉強している。このGW休みは、ちょっとしたハプニングがあり出かけることができないので、家で読書かDVDかプログラム。そんな休日も悪くない。というか、プログラミング、楽しい。

 とはいえ、ただ勉強していても続かない。なので、何かアプリを作る、というのを一応ゴールにしている。勉強した先に作りたいアプリのアイデアがいくつかある(プチアプリばかりだけど)ので、それらを作るまでは続けていく。というよりも、そのアイデアのいくつかを思いついたから、プログラムを書きたくなった、という感じ。

 ま、いずれにしても、飽きるまでプログラム楽しんでいこうと思う。

See also

最高のエンターテイメント邦画 – 「舞妓Haaaan!」

舞妓Haaaan!!! [DVD]

これは楽しい。笑った。自宅でDVD鑑賞したのだけど、映画館で観てたら、笑いが止まらなくて恥ずかしい思いをしたはず。

阿部サダヲが、ぶっ飛んでる。物語の展開は、まさにジェットコースタームービー。全然飽きずに一気にラストまで進む。

何も考えずに、映画を楽しみたい、というときに、お勧めの作品。誰でも楽しめること間違いなし。

は?(楽しめたけど・・・) – 「葉桜の季節に君を想うということ」

葉桜の季節に君を想うということ (本格ミステリ・マスターズ)

「は?」っとなってしまった。正直。

いや、何のことかというと、本著はミステリー小説の類に入るわけなんです。大抵のミステリー小説は、その物語のなかに、一つか二つ、謎解きの山場であったり、「実はこういうことだったのか」というようなどんでん返し的な場面があったりするわけです。

そして、本著にもそんなふうに、「実はそういうことだったのか!?」というどんでん返し的なことが隠されていて、それが判明する場面があるんです。そこで、「どんでん返し」というか、実はそういう設定だった、と読者は気づくのですが、その「実は」を知ったときに、僕は「は?」となってしまったわけです。

なんというか、騙された、というか。いや、騙された、というのはミステリー小説においては褒め言葉になるのだろうけど、本著においてのそれは、悪い意味での騙された、と個人的には感じてしまったということ。え、そうなの?っていうちょっと呆れた突っ込みをしてしまう感じ。

だからといって、本著がつまらなかったわけではなく、ミステリー小説として純粋に楽しめた。それだけに、惜しいというかなんと言うか。その「実は」を最初から物語の設定として読者に周知させたうえで、物語を展開していったほうが、もっと深く読めたような気が個人的にするんです。はい。

Wii Fitでヨガ三昧

Wiiフィット プラス(バランスWiiボードセット) ヨルダンから帰国した翌日、勢いに任せて、近くのジャスコで発売当初から気になっていたWii Fitを購入した。今日で4日目。今のところ毎日欠かさず、からだ測定とトレーニングをやっている。

トレーニングのバランスゲームが楽しくて、ついつい遊びすぎてしまうが、個人的に一番効いてるなあと思うのが、ヨガメニュー。他にも有酸素運動や筋トレがあるが、どちらも毎日の犬の散歩や自転車通勤をしていればある程度の効果がのぞめる。が、身体の柔軟性や体幹を鍛えるには、やっぱりヨガが効く。

また、身体の重心というのを意識するゲーム・トレーニングが多いので、姿勢も良くなりそう。Wii Fit、思いのほか楽しい。二年ほど前から腹がちょっとだけ出てきているのでそいつを凹ますのと、どうしようもなく硬い身体を少しずつでもやわらかくしていくこと。これらをWii Fitな日々が解決してくれそうだ。とはいえ、継続していかないと意味がない。Wii Fitには、継続を促す工夫(カレンダーにスタンプを押す、とか)も考えられているので、楽しく継続していけそうだ。

これは怖い – 「理由」

理由 (新潮文庫)

先日 のヨルダン出張帰国時の、イスタンブール⇒成田間飛行機で一気読み。

この小説は怖い。読みながらの、そして読んだ後の感想がそれである。これは本当に怖い。その怖さは、読了後数日経った今でも、じくじくと怖い。

「一家四人殺人事件」そのものの残虐性も怖いが、その事件が起こるきっかけとなった出来事や、その事件に関係する人間達の心の闇であったり奥を知るにつれ、どんどん怖くなっていく。なぜなら、それは自分自身にも起こりうるとどうしても考えてしまうからだ。そういうリアリティの伴った怖さというのは、ベタベタと容赦なく心に張り付いてきて、なかなかはがれない。困ったものだ。

少し前に読んだ「火車」といい、本著といい、ミステリー小説を楽しむというレベルを超えた、恐怖とそして現代社会を生きる者にとっての教訓を与えてくれる。

「待つ意識」の違い

 3月に二週間のヨルダン出張を終えて、10日も経たないうちに、またヨルダンに来ている。今回も二週間滞在。

 今回、この出張が決まったのが出発の二日前で、週末の予定をキャンセルしなきゃいかん上に、モチベーションがめちゃくちゃ下がるような会話が上司との間であり、それでも現場での仕事は山のようにある、という状況の中、何とか気持ちと身体のバランスを取りながら忙しい日々を過ごしている。

 そんな日々を過ごしつつ、日本とヨルダンの文化の違いというのを色々と発見している。なかでも個人的に特に気になるのが、「待つ意識」あるいは「譲る意識」の違いだ。その意識の違いに慣れていかないと、こちらでは普段の生活のなかで嫌な思いをすることも少なくない。

例えば、エレベーター。日本だと降りる人が優先されるけど、こちらではそれがあまり徹底されていない。とはいっても、こっちが降りようとしているのに気付けば大抵の人は待ってくれるのだけど、道をあけてくれるというところまではしてくれない人も多い。エレベーターの真ん前に立ったままでいるので、こっちがよけなければならない。日本であれば、エレベーターから降りる人がいれば、待つのはもちろんとしても降りてくる人達のためにエレベーターの前をあけておく、というのが普通。

 こういう意識の違いこそが、文化の違いなんだなと思う今日この頃。外国に行ったら、そういう文化の違いを理解するのはもちろん、それを楽しむくらいの気持ちがないと、参ってしまうのかもしれない。