ぼくも、「ていねいでないことば」の魅力も知っているつもりだ。
しかし、やっぱり「ていねいなことば」を
いつもしっかりしゃべる人に対しては、自然と好感を持ってしまうようだ。
「ていねいなことは」は、どんなにおしゃれな服よりも、
身に着けている人をよく見せてくれる。
<ダーリンコラム「ていねいなことば」より>
ほぼ日手帳2006 – 8月21日の言葉
「ていねいなことば」を話す人は好きだし、そういうことばを使える人間になりたいと思う。「ていねいでないことば」を使う人もなかにはいて、そういう人と話してると気分が滅入ったりする。
ただ、「ことばのていねいさ」だけで、心がそこにこもっていない人もなかにはいる。逆に、ことばはていねいではないけれど、心がこもっている人もいる。こういうケースでも、不思議とそこに心がこもっているかどうか、分かってしまう。
心がこもっていなければ、どんなに素敵な「ていねいなことば」を身に付けていても、それ自体は意味をなさなくなってしまうということ。むしろ、心がこもっていないだけに、そのていねいさが余計に冷たく感じてしまったりもする。
心からのていねいなことば。そんなことばで話せるようになるには、ココロとコトバの両方を磨き上げる必要があって、そして、その二つを磨き上げることは、人間としてとても重要なことだと思うのだ。