本はどう読むか

本はどう読むか (1972年) (講談社現代新書)

「どう読むか」などと四の五の高尚なことを言わずに、必要に迫られれば誰でも本を読むのだろうし、物語を楽しみたいときにだって読むのだろう、それでいいじゃん、って思うならそれでも全然構わないと思うので本著も本エントリーもスルーしてもらえばよいと思う。ちなみに、本著では本には三つの種類があるとして、必要に迫られて読む本を実用書=「生活が強制する本」、物語を楽しみたいときに読む本を娯楽書=「生活から連れ出す本」としている。そしてもう一つが教養書=「生活を高める本」。本著ではその教養書をいかに読むか、ということを論じている。その辺りに興味がある方のみ、以下読んでいただければ。

教養書は読まなくてもよい本、そう著者は論じている。というのは、教養書にはそれを読む必要や強制、欲求、誘惑、というのが欠けているというのである。対して、実用書には読む必要や強制があり、娯楽書には読む欲求や誘惑がある。では教養書とは何のためにあるのか。

従って、教養書は、実用書や娯楽書が万人のための本であるのに反して、選ばれた少数者のための本である。自分の生活を高めよう、豊かにしようと決心し、そのために努力する人たちのためにだけある本である。(P.52)

著者はさらにこう続ける。

ただ生きるため、ただ死ぬためであれば、実用書や娯楽書はとにかく、教養書など読む必要はない。それが必要になるのは、「立派に」生きるため、「立派に」死ぬためである。(P.53)

背筋が伸びるというか何というか。教養書を読むという行為に対して、その行為の意味を考えたことは今まであまりなかったが、なぜ教養書を読むのか、と聞かれれば、「勉強のため」云々よりも、「生活の質を高めるため」という答えのほうが感覚的にはすっきりくるように思う。元々本を読むのが好きということもあるが、ただ本を読むのが好き、活字を読むのが好き、ということであれば娯楽書を読んでいればいいものを、教養書の類をときに眠い目をこすりながら読んでいるのには、読書が趣味という感覚とは違う、もっと能動的で切実な何かがあった。それが「生活の質を高める」ためだ、というのは、非常にしっくりくる。ような気がする。

さて、そんな教養書をいかに読んでいくか。読書そのもののテクニック云々(速読とかナントカ)については本著ではあまり論じられていないが、その本をいかに忘れないか、あるいはその本からいかに深い理解を得るか、ということについては明確に答えてくれている。

それは、本を読んだら感想を書く、というもの。それだけである。感想といっても「良い本だった」なんていうものではなく、なにがどう良かったのかということにしっかりと踏み込んで書く。しかも他人にも理解されるような文章で。これは今ならブログやメルマガに、書評なり読後感を書くという方法が適していることは言うまでもない。

僕の場合、読書後に以下三つのパターンがある。

  1. 読んで終わり
  2. 読んで読書メモを書く
  3. 読んで読書メモを書いてさらにブログに書く

たまに読書メモを書かずに、いきなりブログに書評や読後感を書くこともあるが、それでも人に読まれることを意識してブログに読後感(書評)を書くと、その本の理解度というのは他の2パターンと較べて格段に違う。こうやってブログに書いている文章が、人に読んでもらえるレベルに達しているかどうかは別として、書くために、通読中に付箋をつけていた部分を読み直したりするなかで、著者の主張、あるいは自分が学んだことの理解の整理というのがなされている。こんなことをしていると、読み終わってからブログに書き終わるまで結構な時間を要することもあるのだが、読んだ本の理解を深めるために必要な時間として、ある意味読書そのものよりも重要な時間だなと個人的には感じている。

本著は、読書、そして本そのものに対する考え方に少なからず、いい意味での変化をもたらす。特に、早く本を読みたい、とかそういう技術的な部分にばかり意識が行きがちな僕のようなタイプの人には、一読することをお勧めする。

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