死が自分に属していないということは、
生そのものが、自分の所有でないということでもある。
自分以外の誰かのものであるはずもなく、
自分のものでもない。
それが人間のいのちというものなのだと、ぼくは思う。
<ダーリンコラム「自分のもの?」より>
ほぼ日手帳2006 – 3月21日の言葉
今回のダーリンの言葉は、奥が深い。
生も死も、自分のものでも、誰のものでもない、としたら、
人間のいのち、というのは、何なんだろう・・・。
こういうことを考えだすと、支離滅裂になって、
結局答えがでなかったりするので、
つーか、答えなんか出ようがないので、
今日はここらで瞑想に入ります。
その前に。
ひとつだけ言えるとしたら、
人間は生かされている、ということ。
何に?何のために?
それは分からない。
そんなことを考えながら、
今日も瞑想。
【参照】
» ダーリンコラム「自分のもの?」- ほぼ日刊イトイ新聞
» メッセージダイアリー: 毎日ひとつの言葉(メッセージ)について一言書いています。
» 自分にとって意味のあるブログを毎日続ける方法 – シゴタノ!: メッセージダイアリーを始めるきっかけとなったブログ記事
>死が自分に属していないということは、 生そのものが、自分の所有でないということでもある。
哲学の世界へようこそw
とある坊さんが言ってた。「人間死に際を決めるのが一番難しい」。 自分で決められないからね。
確かに『死』は、自分に属していないという考え方には同感だ。
んじゃ、自殺したやつはどうなんだ? 自分で死に方を選んでいるぞ。
確かに。でもまれに生きてるやつがいるから、やっぱり選れべないんだね。
たぶん自殺しようとして死んだ人は、酒飲んで大事故に遭遇すること覚悟で運転している奴と同レベルでしょう。 死ぬ運命だったってこと。
ということは、生きたいと思っていても死んでしまうこともあるから、やっぱり『死』は自分に属していないし、死ぬ時期が決められないんじゃ、やっぱり生きている時間も自分のコントロールを超えている。
健康志向でも車にはねられて明日死ぬかもしれないし、およそ不健康な生活をしているのに長生きしちゃってる人もいる。
やっぱり『死』も『生』も自分の所有ではないのかも。
でも、自分で決められないことばかりじゃない。
理想とする『生き方』は決められるし、同様に理想の『死に方』も決められる。結果はどうであれ、『自分がどうありたいか』、という意思決定は自分でできるし、現実の世界において理想へ向かって日々努力することもできる。
与えられた時間を一生懸命に生きる。
それが、『生きること』だと思うなあ。
でもさ、