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よくわかる慰安婦問題

よくわかる慰安婦問題

つい先日(6/26)、米下院外交委員会にて第2次大戦中の従軍慰安婦問題に関して「旧日本軍が若い女性に慰安婦という性奴隷を強要した」として日本政府に対して「明瞭かつ明確な謝罪」を求める決議案が可決された。なぜ今、このような決議がアメリカの議会で取りただされているのか、そしてそもそも慰安婦問題とは何なのか、本著では、以下のように二部仕立てで論じられている。

第一部 慰安婦問題とは何だったのか

第一部では、一九九二年から行われてきた慰安婦問題をめぐる論争の歴史を取り上げる。ここでは日本の中の、事実を曲げて日本を貶めようとする反日勢力(とあえていいたい)との論争について述べる。(「はじめに」より)

第二部 誰が慰安婦問題をつくりあげたのか

第二部では、なぜこのようなことが起きたのかを議論する。国内の反日勢力だけでなく、今度は国外の反日勢力のネットワークができつつある。つまり、国内の反日勢力が国外の反日勢力と組んで、日本包囲網をつくろうとしているということだ。とうとう、その魔の手がアメリカの議会にまで伸びてしまったということである。 (「はじめに」より)

本著を通読してみて、慰安婦問題についてその論争の歴史を踏まえて、包括的に理解することができた。日本人として、この問題はよく理解しておく必要があることを痛感する。また著者の主張する慰安婦問題の「真実」を信じるならば、慰安婦を「Sex Slave(性奴隷)」と呼びそれを旧日本軍が「強要」したとして、日本に「明瞭かつ明確な謝罪」を求めるという米下院外交委員会の決議にも憤りを感じざるをえない。

米下院外交委員会の決議、という行くとこまでいってしまった背景については、本著にて詳しく論じられているのでそちらを参考にしていだくとして、そこに至るまでの日本政府(外務省)の対応にはため息が出る。日本国内の議論では、慰安婦問題のひとつの肝である「強制連行」はなかったということが立証されているのにも関わらず、事実とは異なることが証明されている資料を元にした国連の報告に対して、それを明確に否定・反論しないのはなぜか理解に苦しむ。

慰安婦問題を論じるうえでキーとなるのが、1993年8月4日に、宮澤改造内閣の河野洋平内閣官房長官によって発表されたいわゆる河野談話だ。この河野談話の全文は、本著にも引用されているが、外務省のホームページでも閲覧可能だ(参照)。この談話を普通に読むと、「強制性」について認めたと受け取れることもできる。しかしその「強制」という言葉の定義や解釈に、この問題をややこしくしているひとつの要因がある。河野談話を読み解くにあたり、この「強制」という言葉の定義は非常に重要になるので、少し長くなるがそれを説明している部分を本著より引用させていただく。

資料が出てこない。しかし、韓国は強制があったことを認めろと言っている。日本は先に総理が謝っている。こうした中で、強制は認められなかったという調査結果を出さなければならない。そのまま発表すれば日韓関係は悪化する。しかし資料にないことは言えない。どうするのか。
それでいかにも秀才官僚らしい名案が出てきたのである。それはなんと「強制」という言葉の定義を広げようというものだった。これが、いわゆる「広義の強制」の誕生だった。
本人がいやなものをやらせれば、それは強制である。ふつうは強制連行という場合、権力による強制を考える。誰が連行したのかは客観的な事実だ。
しかし、河野談話の強制は本人の主観を問題とする。いやでしたかと聞いたとき、本人の主観で、いやだったと答えれば、それは強制されたことになる、というものだ。(P.106)

強制連行を証明する調査結果が出ていなかった(今現在も出ていない)なかで、日韓関係の調整・発展を考慮したときに、「広義の強制」という言葉を発明し官房長官の談話として発表したのは、外交のひとつの手段として必要であったのかもしれないが、それによって、慰安婦問題がよりややこしいものになってしまった。「強制があったかどうか」というのが、争点の肝となるのに、その「強制」という言葉の定義・根拠が立場や解釈によって変わってしまうような「広義の強制」という定義・概念を作ってしまったのは、この慰安婦問題の解決をより困難にするのはもとより、日本の国益をおおいに損なうことになってしまっている、と一般市民の僕でも考えてしまう。

戦時中、慰安婦が慰安所と呼ばれる施設で旧日本軍の軍人の性行為の相手になっていたというのは事実であり、戦時中とはいえそのような行為がなされていたことは、非常に悲しいことで、そのような悲劇に対して、事実を突き止め、謝罪すべき部分はきちんと謝罪すべきだと思う。ただ、そのような人権的にあるまじき悲劇の事実を捻じ曲げて、この問題が本著に書いてあるような日本叩きの材料として利用されているならば、それは許されることではない。

慰安婦問題という歴史的・人権的に非常に重要な問題を、これまであまりに知らなすぎたと反省している。日本人として、この問題の正しい知識を持つことが、この問題に向き合う最初の一歩であるように思う。慰安婦問題は普段見聞きする報道のみで理解できるような問題ではない(慰安婦問題に限らず、あらゆる政治的問題に言えることだとは思うけど)。本著だけで全てを理解できるわけではもちろんないが、その理解の入り口として本著は大いに役立つのでは。


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書評/社会・政治

数学的センスが身につく練習帳

学校の算数・数学の授業だけでは知りえないような、算数・数学のトリビアが満載の本著。お父さんと子供の会話形式という本文が分かりやすく、加えて各トリビアのまとめや図表が理解をより助けている。

「数学的センスが身につく」と題しているだけのことはあり、本著を一読するだけでも、少なからず数学あるいは数字そのものに対する考え方が柔軟になると同時に深くなる。「本書は小学生レベル」(「はじめに」より)と著者の野口氏は述べているが、その読者対象は決して子供に限っているわけではなく、むしろ頭が凝り固まった数学的センスのない大人こそ読むべき本のように感じた。

なかでも、速算術として紹介されている複数桁どうしの計算方法などは、知っていて損はない。インドでは、かけ算の「九九」が二桁あるという話をどこかで見聞きしたときに、ただ全てを暗記するだけではなく、数字のトリックとも言える様な計算方法をインドの人はセンスとして身につけているんだろうなと感じたものだが、恐らく本著で取り上げられているような速算術もそのひとつとなっているんだろうなと思う。

「センス」という言葉には、感性とかそういった感覚的なニュアンスが含まれていて、ものによってはセンスの磨きようがないものあるかもしれないが、「数学的センス」に限っては、こういったトリビアをどれだけ知っているか、ということがセンスを磨くうえでとても重要になってくるように思う。そういう意味でいうと、本著を読むことで数学的センスは確実に身につく。

個人的には、数学的各トリビアよりも、第4章「論理的思考を身につけよう!」で紹介されているような「パラドックスの話」や「じゃんけん必勝法」等が楽しめた。また、第3章「算数脳を鍛えよう!」で紹介されている「ミツバチの巣穴」は自然界にも存在する数字の不思議としてとても興味深い内容だった。

本著の内容は、ぜひ子供たちにも伝えたいところだが、子供に伝える前に、まずは親が本著を読んで、算数・数学・数字そのものを楽しみ好きになることだ。自分自身が楽しめないようなことを、子供に教えようとしたり、やらせようとするのには無理が生じてくる。

「数字は苦手」という人でも大丈夫。「紙を50回折るとどうなる?」という問いに対する答えを知りたいと思う気持ちが少しでもあれば、充分数字を楽しめる。答えは本著42ページにて。


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書評/サイエンス

「本が好き!」で献本書評生活

 ちょっと前から気になっていた「本が好き!(β)」プロジェクトに登録申請して、無事承認された。

参加者は出版社から提供された本のリストから、希望の本を選んで献本を受けます。読み終わったら、自分のブログや SNSの日記に書評を書きます。その際、リンクやトラックバックを使って書評のネットワークを作り上げ、それによって「面白い本」の情報をジワジワと広げて、クチコミの力で新しいヒットを生み出す、というのが目的です。本が好き!(β)

 早速一冊目の本を献本申し込み。一冊目の献本を決める際も他のメンバーの書評を読んで面白そうだったので決めたという、「面白い本の情報をジワジワ広げる」という本プロジェクトの目的に見事にマッチ。僕がこれから書いていく書評を読んでまた誰かにその情報が広がるかもしれない。いいことだ。

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